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 目の前を忙しそうに、人々が行きかう。
 今日は日曜日であるというのに、お疲れ様という外ない。
 燦々と照らす太陽をねめつけ、この町も変わったな、と恭一は呟いた。
 恭一が越してきた祖父の家からは少し距離のあるこの駅前は、隣町の発展に伴ってにぎわいを増していた。
 恭一は、今日の目的の一つであった高校の制服の入った紙袋を右手に提げ、駅前に並ぶ店のショーウインドウをぼんやりと眺めながら歩き出した。
 明日からは学校も始まり、編入して数日はそれなりに忙しい日々が続くだろう。
 その前に、どうしても行っておきたい場所が、あった。


 人でごった返す駅前を数十分も歩けば、町の景色はがらりと姿を変えた。
 背の高い建物は殆ど見えず、あるとすれば団地やマンションが数棟あるくらいだった。
 この辺りに来れば、それほど恭一が昔いたころとの変化は見られない。
 数日前に恭一がこの町に帰ってきた時は、その事に安堵をおぼえた。
 街路樹の植えられた静かな道を、しばらく歩くと目的の場所についた。
 夕日に朱く染められた公園はどこか寂しさを漂わせていた。
 名前も知らないけれど、恭一にとってこの公園は無邪気な自分でいられた最後の場所だった。
 まだ幼かった恭一は、この公園で出会った伊万里と二人で仲良く遊んだ。
 そう言えばあの頃の伊万里はとても泣き虫で、大人しく、控え目に笑う少女だった気がする。
 昨日再会した時の彼女は、大きく吸い込まれそうな瞳や、つやつやした絹糸のような黒髪などいくつかのパーツこそは当時の名残を少し残してはいるものの、あの明るい笑顔や、性格は全く別人のようだった。
 だから恭一は名前を聞くまで、伊万里のことに気づくことができなかった。
 恭一が伊万里と出会った時期は、ちょうど彼女の母親がこの世を去った時と重なるので、当時の彼女はそのせいで沈んでいたけれど、今はもう乗り越えることができたということかも知れない。
 何にせよ彼女も多かれ少なかれ、変わったということだ。
 人も、町も、何もかも変わらずにはいられなくて。
 どうせ変化から逃れられないなら、少しでも良い方向へ変わる方が当然にして良いに決まっている。
 多分、伊万里は幸せな変化を遂げた。
 そのことが、恭一にとってささやかな喜びと安堵をもたらしていた。
 伊万里と二人、この公園で遊んだ日々を思い返してみると、長くはなかったけれどとても楽しかった覚えがある。
 そして、幼く、拙いものではあるけれど、ほのかに温かい気持ちがその頃の恭一には宿っていた。
 今はもう、誰かを好きになる気持ちなんて忘れ去ってしまったけれど。
 あの時確かに恭一は、伊万里のことが好きだった。
 そのことを思うと、伊万里が自分のことを覚えていなかったことに若干の寂しさを感じずにはいられなかった。
 たとえ、彼女が覚えていたところで、恭一は自分が伊万里と遊んでいたその男の子であると名乗ることなんてできはしないのに。
 あの頃の、恭一はもうどこにもいない。
 今ここにいるのは、日々に絶望し、何も持たない抜け殻のような人間なのだ。
 思い出をたどるように公園を歩いていた恭一は、昔よく壁当てをして遊んでいた場所に人の姿を見つけて立ち止まった。
 Tシャツとジャージ姿の髪の短い青年が、厳しい顔をして白いタオルを右手にシャドーピッチングをしていた。
 シャドーピッチングというのは、タオルのようなものをボールに見立てて、かといってタオルを投げるのではなく、握ったままでピッチングのまねをする練習だ。
 タオルの軌道や音などを参考にして、投球フォームの矯正などをするのだが、シャドーピッチングは前述のとおり物を投げるわけではないので、ある程度の広さがあれは家の中でも出来る。
 態々こんな所でする必要性はないのだが。
(ま、この辺に住んでるやつなんだろうな。マンションとかに住んでるなら家の中だと近所迷惑だし、庭もないだろうしな)
 と心中で勝手に結論付ける。
 ふと、恭一はその青年の顔に見覚えがあることに気づいた。
 昨日気まぐれで見ていた練習試合でサヨナラホームランを打たれ、異様に悔しがっていたエースピッチャーだった。
 彼何をムキになっているのか、昨日よりも投球フォームがバラバラだった。
「くそっ!」
 彼もそれが分かっているようで、手を止めると肩で息をしながら、じっと壁を睨んだ。
 その壁には昔、恭一が壁当てでつけたボールの跡が数多ついていた。
 睨む彼の目がその跡に向いているように感じ、恭一はまるで自分が睨まれているみたいだと思った。
「フォームが崩れていますよ。疲れているみたいですし、今やっても変なクセがついたり、肩肘を壊したり、逆効果ですよ」
 何となく申し訳なく思った恭一は、思わず声をかけていた。
 少年は肩をびくりと一度震わせると、勢いよく恭一を振り返った。
 見ようによっては目つきの悪いともとれる釣り目がちな目で、じろりと恭一を睥睨してきた。
「あー、別に俺は怪しいものじゃないです。ただあんまり真剣にやってるから気になって……」
 そう言いながら、自分でも胡散臭さを感じた。
 いきなり見知らぬ人間に話しかけられたら、誰だって警戒はするだろう。
 実際、その少年も胡散臭そうに恭一を見ている。
 恭一は手に提げた紙袋の中から、今日買ってきた高校の制服を取り出した。
「ほら、この制服!雛森高校の制服です。俺明日からココに編入するんです」
「……」
 少年は無言で、恭一と制服を品定めをするように見比べた。
「名前は?」と剣呑な声。
「松浦、恭一です」
 幼い頃の出来事より恭一は人からにらまれたり、悪意を向けられることが人一倍苦手だった。
 過去のあの男の目と重なり、どうしても体がすくんでしまうのだ。
「年は?」
 かすかに震える恭一には気付かず、少年の声はとげを含んだままだ。
「え、と……高2、です」
 恭一は一瞬躊躇して、学年を答えることにした。
「ふーん、同い年か」
「は、はは……」
 恭一は曖昧に笑う。
 彼の容姿上、実際の年齢より下に見られることには慣れていた。
「な、お前、野球経験者か?」
「あ……はい」
「ポジションは?」
「……」
「何だ補欠かよ」
 チッと舌打ちが聞こえて、恭一はカッと頭に血が昇るのが分かった。
「エースピッチャーでした」
 嘘ではないが、答えなくてもいいことまで付け加えていた。
 その瞬間少年の目つきが変わった。
 焦燥と不安のようなものを混じらせた声で、
「……ヒナコーでも野球部に入るのか?」
「え?ヒナ……」
「ヒナコー。雛森高校の略称だよ。で、野球部入るのか?」
「あ、ああ……できません、よ」
「……できない?」
 恭一の言葉に、少年は眉をしかめた。
 その探るような視線に、恭一は無意識に左肘をぎゅっと握った。
「利き腕は、左、か?」
「え、ええ……」
 なるほどな、と少年は頷いた。
 野球経験のある彼には、ある程度察しがついたのだろう。
 恭一に向ける視線が、同情からか幾分ゆるんだ。
「上手かったのか?」
「は?」
「だから、野球、上手かったのか?」
「んと、一応リトルリーグのあるチームでエースでしたけど」
「そのチーム強かったのか?」
「まぁ、それなりに。……地元では一番強かったかと」
「ふむ……」
 畳みかける様に質問を重ねると、少年は腕を組み、何やらぶつぶつと呟きながら考え込みだした。
 その様子を尻目に、恭一はひとつ、深呼吸をした。
 次第に体に染みついた怯えが取れていく。
 同年代の少年に対して過剰に怯えていた事に、恥ずかしさと苛立ちを感じる。
 知らず、ぐっと唇をかむ恭一に少年は意を決したように迫った。
「俺は、山代大和。お前と同じ二年だ。恭一って言ったっけ、お前に頼みたいことがある」
「頼み?」
「俺に、野球を教えてくれないか?」















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