夢。 夢の中に、恭一はいた。 小さな部屋。 5畳ほどの部屋に、古い、綿がペチャンコになった蒲団が敷かれ、今より幼い恭一がそこで震えていた。 襖一枚を隔てた場所には、獣がいる。 大酒を喰らい、何かにつけて愚痴をこぼし、罵り、母に暴行を加えていた。 幼い恭一は、怖くて、恐くて。 ただ、震えることしかできなかった。 恭一の父親に買ってもらった、グローブとボールをギュッと抱えて、蒲団にくるまって怯えていた。 『母さんを、お前が守るんだぞ』 そう言って、やせ細った震える指で恭一をなでてくれた父。 もし彼がここに居て、その恭一を見ていたなら、彼を叱っただろうか。失望しただろうか。 (無理だよ、無理だよ……お父さん……) あんな人とは到底思えない、獣に、勝てるはずがない。 やがて、ひときわ大きな叫び声が聞こえる。 「やめてください!恭一には、恭一には……!!」 「うるせぇ!俺に命令してんじゃねぇ!」 確かな、ヨカンを悟り、恭一はグローブとボールを急いで部屋の隅にある棚に隠した。 そしてまた蒲団に戻る。 と同時に、襖が荒々しく開かれる。 蒲団が無理やりめくられ、恭一と獣の、目が合う。 にたぁ、と獣が笑う。 ぐおおぉ、獣が吠える。 ――あぁ。 今夜も、始まった。 恭一は、圧倒的な暴力に抵抗することもなく、否、抵抗できるはずもなく、ぐっと目をつむり耐える。 泣きたくはないけれど、あまりの痛みに涙は抑えられない。 数年前に、あの公園で可愛い女の子と遊んだ、あの楽しい思い出だけを頼りに、じっと耐え続ける。 耐え続けるけれど、口から洩れる声にならない悲鳴は抑えられない。 その悲鳴が、癪に障ったのか、それとも心地よかったのか、獣はその暴力を一層強めた。 夢の中の幼い恭一の泣き声と、獣の鳴き声を聞きながらやがて、恭一の意識は昏い闇に沈んでいく。 そこで恭一の夢は終わる。 毎日のように恭一を苦しめる夢は、いつもそんな風に終わりを告げ、朝が来るまでの仮初の安息を得た彼は、死んだように深い眠りにつくのだった。 恭一の部屋から聞こえる、うめき声を聞きながら、老夫婦は抱き合っていた。 「どうして、あの子がこんな目に」 恭一の祖母は、泣きながら、孫の不幸を嘆いた。 その震える肩をしっかりと抱きしめ、恭一の祖父はじっと目を閉じている。 この家に引っ越して来てからというものの、恭一は毎夜悪夢にうなされている。 恭一の母であり、老夫婦の娘でもある真理に聞いた話では引っ越してくる前、病院に入院していたころからほとんど毎日欠かすことなくうなされているようだ。 ――まさに、悪夢だ。 否、悪夢という言葉さえ、きっと生温い。 できることならば、孫の苦しみを代わりに背負ってやりたかった。 きっと、老翁に支えられながら、天に祈るように手を合わせている彼の妻も、同じようなことを思っているのだろう。 2人は、孫が見ている悪夢の正体を知っている。 その正体を思うたびに、彼らは数年前の自分達を責めずにはいられない。 彼らの娘と、あの男の再婚を許した自分達を出来ることならば殺してでも止めてやりたい。 あの時は、夫に早くから先立たれた娘の幸せもそうだったが、恭一もやはり父という存在が必要だと思ったし、その時の娘の相手は心優しい男だという印象があった。 最も、その印象は全く間違ったものだったのだが。 恭一を何年もの間苦しめ、今も苛み続けているあの男は、今頃頑丈な監獄に守られてすやすやと眠りこけているのだろう。 そう思うと、祖父はその理不尽さに、沸き起こる憤りを抑えきれない。 握りしめた拳に、自分の年齢からは考えられないほどの力が加わっていくのを感じる。 その拳を大切な孫のために振るってやることもできない自分が悔しくてたまらなかった。 暫くして、恭一のうめき声がいつものように、ぴたりと止んだ。 もう今夜の悪夢は終わったのだろうか。 老夫婦はこの後の恭一の眠りが、せめて朝までは穏やかである事を願いながら彼らも眠りについた。 それが、恭一が彼らの家にやって来てから数日間の習慣となっていた。 戻る 進む |