びゅう、びゅうと風が吹き付ける。
雨がバチバチと、私が差す傘を叩きつけてくる。
傘で防ぎきれない雨が、私の体を濡らしてくるけれど、それよりも私はお気に入りの傘が壊されてしまわないかどうかの方が心配だった。
あまりお気に入りじゃないし、似合ってもいない黄色いレインコートを着て来たのは、正解だったのかもしれない
全く、私は傘に隠れるようにしながら、ため息をついた。
こんな嵐の日に、どうして私は外に出ているんだろう。
馬鹿な私を嘲笑うかのように、ひときわ強い風が吹いて、私の傘をさらっていった
「あ、ああ……」
私は呆然として、阿呆みたいに口をぽっかり空けて立ち尽くし、飛ばされたピンク色の傘の行方を追った。
お気に入りの傘は別れも告げず茶色い川に落ちものすごいスピードで流されていった。
あの傘、好きだったのに。
ぐし、と鼻をすすり、泣きそうになりながら、しゃにむに川沿いを歩く。
私まで流されたりして、なんて半ば笑えない冗談で無理やり歪な笑みを作る。
目指すのは、町はずれの丘。
――私がこの世界で一番大好きな、場所。
なんとか、丘にたどりついたけれど、既にレインコートさえも役に立っていなかった。
冷たい雨が体の熱に温められ温くなり、凄く気持ち悪い。
もう、やだ。
こんな天気の中、外に出たのは私なのに、相変わらず半泣き状態で緩やかな丘を登る。
「もう、何でこんなに雨と風が強いのぉ……」
嵐だから当然といえば当然のことに、ぐちぐち言いながら、どうにか坂を登り終えた。
目の前に広がった景色に、はふぅ、と落胆とも感嘆ともとれる息をついた。
緑一色の丘の中央に立つ、大きな一本の桜の木が風に凌辱されその身にまとった薄桃の花弁を剥がされていた。
風に踊る桜の精たちは、確かにどこか幻想的で綺麗ではあるけれど。
それ以上に、悲しくて、悲しくて。
とうとう、私は涙を堪え切れず、桜の根元にしゃがみ込んでぼろぼろと泣き始めた。
――この丘の桜が咲いたら、帰ってくるわ。だから、それまで待っていて。私の可愛い瑠花。
そう言い残し、幼い私をおいてお母さんはお父さんじゃない男の人の元へと去っていった。
私はいやいやと首を振りながら、お母さんにしがみ付いたけれど、お母さんは私を一緒に連れて行ってはくれなかった。
その日から私は桜が咲くたびに、この桜の木の下でお母さんを待ち続けて。
桜が散るたびに、落胆して、でも泣くのだけは我慢していた。
来年にはきっと、なんて幼い気持ちを抱えながら。
けれど、今年もまた桜は散る。
この風だ、嵐が去る頃にはもう、桜の花は残っていないだろう。
また、空ろな1年を待たなきゃいけない。
長い、長い、一年を。
でも、本当は何年待ったとしても、お母さんが帰って来ることはないことを気づいてもいる。
私も小学生高学年になって、少しは大人に近づいたつもりだから。
お母さんの言葉が、守られることのない上辺だけの約束だってこと、気付いている。
だから、今年が最後って決めていた。
中学生になったら、もう、待つのはやめる。
そう、決めていた。
そして、桜は無残にも、いつもより早く散る。
これで最後だから。
最後にするから。
――だから、泣いてもいいよね?
「お母さん……」
嗚咽の中、どうにか言葉になった声は春の嵐にかき消されてしまった。
どのくらいそうしていただろうか、思いっきり泣いた私は、漸く泣きやんだ。
今更かもしれないけど、雨を防ぐために丘にひとつだけある屋根つきの木のベンチに座った。
雨は風に流されていて、屋根もあまり意味をなしてない気もするけど、ないよりはましだろう。
一通り泣いたからだろうか、もう気持ちはすっきりとしていたけれど、やっぱりまだここを離れたくなかった。
大体、思い返すと、お母さんとのいい思い出はなかったかもしれない。
お母さんは看護師をしていて、いつも忙しそうにしてたから。
私も、幼いながらに甘えちゃいけない、なんて思っていた。
でも、お母さんがふとした時に浮かべる笑顔は、私をほんわか温かくしてくれて、私はその笑顔が大好きだった。
お母さんに笑ってほしくて、色んな事を頑張ったのをおぼろげに覚えてる。
そのままぼーっとしていると、向こうから丘を登ってくる人が見えた。
風で壊されるのを危惧しているのか、手に持った青い傘をささずに透明なレインコートで雨を防いでいる男の人。
年は、たぶん中学生くらいだろうか。
こんな嵐の日に外へ出て、態々辺鄙な丘にくるなんて、と自分のことを棚に上げてじぃと見詰めていると、ふとこちらを見た男の人と目が合った。
彼は驚いたような顔をして、私のそばへとやってきた。
そして、大丈夫?なんて言ってすっと懐から真っ白なタオルを出して、私に渡してくれた。
「こんな嵐の日に外に出るなんて、風邪ひいちゃうよ」
「あ、ありがとうございます……」
素直に受け取り、お礼を言うと、「どういたしまして」って男の子は笑った。
その柔らかい笑みに、心がきゅ、と締め付けられた。
何となく恥ずかしくなって、俯いていると
「僕は、紺野智って言うんだ。君は?」
「え、ええと……三原瑠花、です……」
「そう、瑠花ちゃんか、よろしく。あ、僕の事はトモでいいから」
「は、はい、智さん」
「はは、別に呼び捨てでもいいのに……もしかして年下なのかな?」
そう言って智さんは首をかしげた。
私はどう答えていいか困ってしまって、え、ええと、と口ごもった。
「あ、僕の年を言ってなかったね。僕は中2なんだけど……瑠花ちゃんは?」
「小6です……」
「へぇ、そうだったんだ。中学生くらいに見えたんだけど、背、高いんだね」
私は、こくんと頷いて答えた。
智さんの言うとおり、私はクラスの女子の中で一番背が高く、男子を入れても3番目に高い。
そのことで男子から何度もからかわれたりした。
友達の柚子ちゃんは、
『男子は瑠花ちゃんのことが好きだから、意地悪してるんだよ。全く、ガキだよねー』
なんて、からからと笑っていた。
私は、そうなんだ、と呟いてみたけれど、そのことを信じることができなかった。
だって、柚子ちゃんはガキって笑うけど、私にとって苛めてくる男子は恐怖の対象でしかなくて。
彼らが私を好きだなんて考えると、ぞっと背筋が凍る思いだった。
そんなこともあってか、私のこの背の高さはコンプレックス以外の何物でもなかった。
「あれ、もしかして僕、傷つけちゃったかな?ごめんね、僕あまり女子と話さないから、女心ってものが分かんないんだ」
顔を俯いたままの私に、慌てたようにそんなことを言う智さんは確かに女心が分かっていないと思う。
智さんはもう帰った方がいいよって言ったけれど、私はかたくなに首を振った。
やがて、智さんは諦めたかのように、大きく鼻で息を吐くと、よいしょっ、とおじさんみたいに言って私の隣に座った。
「ごめんね」
「え?」
「いや、ほら、身長のこと。傷つけちゃったみたいだから」
「あ、いえ、もういいんですその事は」
そう言いながら、私は苦笑する。
「もしかして、男子から意地悪されたりするんじゃない?」
「え……はい、そうですけど……何で、分ったんですか」
私は驚いて、智さんをまじまじと見つめる。
何か超能力みたいなものを使ったのかな。
すると、智さんはやっぱりね、と頷いて見せて、
「きっと、男子たちは瑠花ちゃんのことが可愛いんだよ」
と、柚子ちゃんと似たようなことを言って、僕もやってたなぁ、としみじみと呟いていた。
「そんな、私……可愛くなんて、ないです」
言いながら、お母さんの顔がよみがえる。
お母さんは、すごく可愛くて、さらさらの髪がよく似合っていた。
でも私は、あんまりお母さんに似てなくて、髪は癖っ毛だし、やっぱり背が高すぎるのは良くない。
そんなことを考えて、また暗くなる私に、
「そう、可愛いと思うよ、僕は」
と、智さんはふわりと笑った。
まただ。
智さんの、この笑顔は反則だ。
クラスの男子とは全く似ても似つかない柔らかい笑顔。
それは何となくお母さんに似ていて。
凄く、胸が苦しくなる。
私は、赤くなった顔を見せたくなくて、そっぽを向いて
「と、智さんって恥ずかしいことも平気で言うんですね」
まるでナンパしてるみたいです、と思ってもいないことを口走っていた。
智さんは、やっぱり困ったみたいに
「そ、そうなのかな」
と、笑っている。
その笑顔が、少し悲しそうに見えて私はあわてて、でも、と言い直す。
「私は、そういうの結構好き、です」
言ってから、何言ってるんだ、と激しく後悔する。
これじゃ、まるで告白してるみたいだ。
いや、みたいじゃなくて告白そのものだ。
これ以上赤くならないと思っていたけれど、私の顔はさらに赤くなった。
智さんは、きょとん、として暫くだまっていたけれど、
「ありがとう、瑠花ちゃんにそう言ってもらって嬉しいよ」
と、笑ってくれた。
どきどきする鼓動が止められない。
ついさっきまで、悲しくて泣いていたはずなのに、今ではその気持ちは隅の方へ追いやられていた。
私って、ハクジョーな子供だなと思うけど、溢れ出る気持ちを、鼓動を抑えることができなかった。
好き。
私が思わず口走ってしまった言葉は、多分、私の正直な気持ち。
今まで、男子なんて嫌な存在以外の何物でもなかったから、これが私の初恋だった。
「それで、どうしてこんな日にこんな所にいるのかな?」
「それは……」
今私がここにいる理由なんて、人から見れば些細なものかもしれないけれど、でも答えるのは恥ずかしかった。
それに、そのことならもう私の中で決着をつけたつもりだ。
つもりだけど、やはりまだ帰りたくないという気持ちは、確かに心の奥底に小さく、けれど深く根付いていた。
要は、意地なのだ。
これだけ待ってきたのだからまだ待てる。
次は、来年こそは、という幼い子供の意地なのだ。
私は、まだどうしようもなく子供なのだった。
とはいえ、私がここをまだ離れたくないという気持ちは他にもあって。
その理由も口にするには、勇気が絶対的に足りない。
私が口ごもっていると、
「ああ、答えたくないことないならいいんだよ。誰しも言いたくないことの一つくらいは持っている、ってよく言うしね」
それは、智さんもですか?とは聞けなかった。
こんな嵐の日にこうしている私も変なのだろうけれど、それは智さんも同じことだ。
きっと、何か理由が智さんにもあるのだろう。
「でも、瑠花ちゃんの親御さんが心配してるんじゃないかな?」
「大丈夫です。お父さんは仕事で毎日ほとんど帰らないし……」
そう、お母さんが出て行ってからお父さんは狂ったみたいに仕事をしだし、家に余り帰ってこなくなった。
きっとお母さんとの思い出があふれた、あの家に帰るのが辛いんだろう。
私も今のお父さんにとっては、お母さんを思い出させる嫌なものでしかないのかもしれない。
「ん、お母さんは?」
「……」
智さんの質問に私が答えられず、また俯いてしまったのを見て、智さんはあっ、と慌てたように漏らした。
「ご、ごめん。また無神経なこと言っちゃったか……はぁ、全く僕は本当に空気が読めないな……」
「い、いえ!別にお母さんは死んだわけじゃないんです。ただ少しお出かけしてるだけで……」
私を置いて、他の男の人の所へ行ってしまった、なんて言いたくなかった。
これも、きっと私の幼さ。
そして、こんな嘘、通用するはずもない。
ただ私の心を、幾許か虚しくするだけ。
でも、智さんは私の顔をじっと見ると、やがて優しく微笑んで、
「そっか」
と、私の頭を少しだけ乱暴に、けれどやっぱり優しく、わしゃわしゃって撫でてくれた。
「あぅ……子ども扱い、しないでくださいっ」
私の心臓がバクバクと暴れる。
恥ずかしいけれど、それ以上にうれしかった。
そして、少しだけ悲しかった。
子ども扱いされていることが、当然のことだろうけれど、対等の女の子として見てくれていないことが分かってしまって。
智さんとは、たった2つしか年は離れていないのにその2つが遠く感じた。
小学生と中学生がまるで別の生き物のようで、凄く遠かった。
「ん、いいじゃん子供でもさ。僕もまだまだ子供だしね」
本当に智さんは、空気が読めないと思う。
確かに私も、智さんも世間的には、立派なと言っていいか分からないけれど、れっきとした子供である事には違いないけれど。
でも、私が気にしていることは、悲しく思っている事はそういうことではなくて。
私と智さんの間に広がる大きな“差”なのだ。
今私と智さんはこうして、三十センチも離れていないぐらいの距離に隣り合わせで座っているのに。
こんなに二人の距離は近いのに、だけどどうしようもなく、遠い。
ぐし、と鼻をすすった。
やだな、私、また泣いてる……。
さっきまで、全く違う理由であんなに泣いたのに。
本当に、子供だな……。
そんな、自己嫌悪がまた私の涙腺を緩くする。
「うぅ……」
「っと!どうした、また僕何かしでかしちゃったかな?!」
ふるふると私は首を振る。
「うぅん……違うん、です……これは私が、子供、だからぁ……」
「ぁ……」
私の言葉に、智さんは打ちひしがれたような顔をした。
ごめん、と小さな声で呟いた。
私は本格的に泣いてしまって、声も出せず、ただ首を振ることしかできなかった。
でも、それじゃあ私の思いは伝えられない。
違うのに、そんなんじゃないのに。
責めるつもりなんて、ぜんぜんなかったのに……。
涙が止まらない。
やだ、やだ。
何か私、これじゃ駄々こねているみたいだよ……。
慌てて、早く止めなきゃ、とか智さん困ってるのに、とか思うと更に涙があふれてしまう。
そうなるとおかしいもので、お母さんに申し訳ないな、とか我ながら意味の分からない気持ちが浮かび上がって涙を助長する。
一向に泣きやまない私に、智さんは暫く、あーとか、うーとか困った声で唸っていたけれど、やがて、ふぅ、と息を吐くとすっと、立ち上がった。
――ああ、怒らせちゃったかな……。
そんな風に思って、ますます泣きじゃくりそうになったところで、
「『本当に貴方は女心を分かっていないんだね』」
その声色が、全く違うものだったので私は少し呆然と智さんを見上げた。
「え……?」
「口癖だよ、僕が好きだった人の、ね」
智さんは振り返って、笑う。
その笑みは、いつもの笑顔ではなく、何だか悲しそうな笑顔だった。
「好きな……?」
鸚鵡返しにつぶやく。
好きな人がいたっていうこともそうだけれど、その言葉が過去形だったことにも気づいた。
「うん、もう、居なくなっちゃったんだけどね」
智さんは顔をそらして、外をじっと見ていた。
その視線は、雨嵐に踊る桃の花弁を追っているのか、それとも重く垂れこめた雲のその先を射抜いているのか。
「幼馴染だったんだけどね、僕の鈍感ぶりに『私以外には智のこと好きになってくれる人なんてきっといないわね』っていってたよ。懐かしいな」
ここの桜は、彼女のお気に入りで、よく一緒に来たなぁ、なんて呟いている。
その声はか細く。
後姿が弱弱しく、今にも風に吹かれて飛んで行ってしまいそうに、雨に溶かされてしまいそうに儚くて。
ぐしっと、レインコートで涙をぬぐってから私は立ち上がって、ぎゅっと智さんの手を握っていた。
「瑠花、ちゃん……?」
私が。
最初は掠れて、声にならなかった。
まだ、少しだけ、勇気が足りない。
神様、ほんの少しだけでいいから、私に勇気をください。
すぅーと息を吸い、そして吐く。
ぐっと顔をあげて、智さんを見上げて確りと目を合わせる。
「私が」
やった。
声になってくれた。
勢いが消えないうちに、伝えたいことを言葉にしてしまおう。
「私が、智さんを好きになります。智さんは確かに女心とか空気が読めないところもあるかもしれないですけど、でも私はそんな所をひっくるめて、ううん、そんな智さんだからこそ好きになれるんです。まだ会ったばかりなのにこんなこと言ったり、泣いてばっかりで変な子とか思ってるかもしれないですけどっ。それはごめんなさい。でも、でも」
矢継ぎ早に言って。
浅く息継ぎをして。
幼い言葉かも知れない。
拙い気持かも知れない。
この吹き付ける嵐に負けないように、思いを強く、言葉にする。
「でも、好き、なんです」
後悔が襲うけど。
失恋してしまうかもしれないけど。
でも、私は今伝えることが正解だって思ったから。
智さんは、さすがに驚いたみたいで、目を大きく見開いて私をぼーっと見ていたけれど
「そう、か……ありがとう」
と微笑んだ。
かーっと、顔が熱くなる。
それは、笑顔に見とれてしまったからじゃなくて。
やっぱり、智さんは私のことを子供だと思っていて。
私の思いの丈が、智さんたちに比べると低すぎるって思われている気がした。
「わた、私だってちゃんと女の子です。智さんの周りの人みたいに、幼馴染の人と同じみたいにちゃんと、恋、できます。人を好きに、なれるんですっ」
「瑠花ちゃん」
ぽん、と私の頭に智さんの手が載せられた。
「だからっ――」
「ごめんね」
私の言葉を遮って、智さんが言う。
「やっぱり、今は瑠花ちゃんのこと、そんな風には見れないんだ。せめて、僕と同じ中学生だったらよかったんだけど。こんなの古臭いガンコな考えかもしれないけど、ね」
「でもっ、でも私は!!」
「だから」
わしゃわしゃ、と頭をまた撫でられる。
嬉しいけれど、やっぱり寂しい。
それに、今さっきの行動は自分でも幼かったと、そう思う。
見ると、智さんは目を細めて、私を見ていた。
ほんのちょっと愛おしそうなものを見る目だと思ったのは、私の自意識過剰なのかな?
「だから、待ってるよ。僕も瑠花ちゃんに嫌われたりしないように頑張るから、瑠花ちゃんも後一年小学生として楽しく過ごしながら“女の子”を磨いておいで」
なんて、偉そう過ぎて、何様だよって感じだよね、と智さんは冗談めかして苦笑した。
私は、そんな言葉聞かないで、それならっと身を乗り出した。
風にも負けず大地にしっかり根を下ろす桜の木を指差して。
「それなら、また来年、あの桜が咲くまで待っててください。驚くくらい可愛くなって、きっと、智さんを好きにさせてみますから。だから、待っててください」
「うん、その時まだ瑠花ちゃんが僕のことを好きでいてくれたら、ね」
「そんなの心配しないでください。クラスの男子なんて意地悪なだけで、全然ダメダメですから」
「はは、それはちょっと耳が痛いような……」
「それで、まってて、くれます、か?」
「うん、僕は今は好きな人はいないし、当然だよ」
あ〜何か上から目線でほんっとにごめんね、なんて空気の読めなさを発揮して言う。
私は、はは、と苦笑して、雨の中桜の木の下へ駈け出した。
「濡れちゃうよ?」
「大丈夫です、レインコート来てますし、もう濡れてますから」
それに、幸せで熱くなったから冷やしたいですから、と、智さんには聞こえないくらいの声量でぽつりと呟く。
智さんも屋根の下から出て来て、私の隣に立った。
「手、繋いでもいいですか?」
「うん」
私の方からだけど、今はそれでもいい。
「じゃあ、帰ろうか」
「はい!」
2人手をつないで歩いてく。
まだ、恋人同士どころか、スタートラインにも立てていないけど。
全て、これから、これから。
私は、振り返らず丘を下りていく。
また来年、桜が咲いたら。
もう一度、好きですと、伝えよう。
その時は、もちろんぽかぽかと晴れ渡った日でも素敵だろうけれど、こんな風に雨が降ってても、嵐でも。
それはそれで、きっと、まばゆいくらい、幸せ。
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