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 学校までの道のりを急ぐ。
 今日は、いつもより家を出るのが遅かった。
 母さんが、寝坊しやがったのだ。
「別に、まだ時間に余裕はあるでしょ」
 なんてお気楽な事を言ってくれてたけれど。
 それじゃ、ダメなんだ。
 それじゃ、アイツに、会えない。
 俺にとっては、心臓破りもかくやである坂を、息を切らしながら思いっきり走る。
 この、心臓がバクバク暴れる感覚。
 ――アイツのことを思うと決まって起こるあの感覚に、似てる。
 坂をどうにか上った先に、目当ての少女を見つけた。
 赤いランドセルを背負った、他の生徒より少し高い背中。
 いつもは、その背中を丸めて、ハムスターとか兎のような小動物みたいなびくびくした動作で歩いている少女。
 三原、瑠花。
 俺の家の斜向かいに住む、所謂幼馴染。
 毎朝決まった時間に登校する三原を誰よりも早くからかうのが、俺の日課だった。
 三原をからかうと、何というか変な気持になる。
 少し、ちくっとした痛みもあるけれど、何より三原がうるんだ目で俺を見たり、やめてよ、とか小さな声で言ったりしてやっぱり小動物じみた反応を返してくるのが嬉しくて、楽しい。
 胸が高鳴って、苦しくなって。
 このよく分からない感覚が、好きだった。
 俺は、息を整えながら、三原に近づこうとして、げっ!と立ち止まった。
 三原の隣に相沢柚子がいた。
 いつもはもっと遅刻ギリギリに来るはずなのに、何で今日はこんなに早いんだよ。
 相沢は三原の親友だと自ら公言していて、いつも一緒にいる。
 俺や、ほかの男子が三原をからかっていると、何処からともなくやってくる嫌なやつだ。
 空手教室に通ってるらしくて、腕っ節はクラスの男子にも引けを取らない。
 男は女を殴っちゃいけないってよく言うのに、何で女が男を殴るのは許されるんだ。
 凄く不公平だ。
 近づくにも、俺一人では相沢が怖くて近づけずに2人を窺いながら、少し後ろを歩く。
 その時、漸く三原がいつもとは違い背筋をぴんと伸ばしているのに気づいた。
「へー、じゃあ、その傘その人に貰ったんだ」
「ううん、貰ったんじゃなくて借りたの。今度会ったときに返すって約束したの。本当は家に置いておこうかと思ったんだけど、やっぱり持ってきちゃった。智さんのこと、できるだけそばに感じていたいから」
「ふーん、乙女だねぇ……」
 相沢がにやにやと笑っている。
 三原はなぜか照れくさそうに白い頬を赤く染めて、大きめの青い傘をギュッと抱きしめている。
 そういえば、今日雨が降るから傘持って行きなさいってお母さんが言ってたっけな。
「んで、その人にホの字なわけだ、瑠花っちは」
「ホの字って……柚子ちゃん古いよ」
「そんなことはいいの!で、好きなんでしょ?」
 好き?
 2人が何の話をしているのか、良く分からない。
 でも、何故か相沢の問いに三原がますます顔を赤くして、恥ずかしそうに、でもどこか嬉しそうに。
 小さくこくん、と頷いてえへへと笑っていることがすごく気にくわなかった。
 俺は立ち止まって、顔を伏せた。
 走ったことから来るものではない鼓動の暴走。
 心臓が、ぎゅっと握りつぶされるような、俺が好きな感覚に似た、だけど全然温かくない、切ないだけの嫌な感覚。
 ――この気持ちを、俺は知らない。
「おい、三原。その傘何だよ」
「げーでっかい傘!のっぽの三原にはぴったりだな」
「っていうか、何かオヤジ臭くてダサくねぇ?」
「あはは、そうだなオヤジくせー」
 聞きなれた男子の声に、俯けていた顔をハッとあげた。
 見ると、少し離れたところで
 三原と相沢が、5〜6人の男子に囲まれていた。
「なによ。あんた達。また瑠花いじめ?」
「何言ってんだ、相沢。俺たちはいじめてるんじゃねえよ。ちょっとからかって遊んでるだけだろ〜」
「ったく、それがいじめだって言ってんのよ」
「うるせぇなぁ、相沢は。三原、ちょっとその傘貸してみろよ」
 男子の一人が三原の持つ、傘に手を伸ばす。
 相沢が止めようとしたけど、ほかの男子がそれを阻んだ。
 男子の手が、青い傘をひったくろうとして。
 

 ――ぱしん、と乾いた音が妙に響いた。


 男子たちが呆気にとられている。
 勿論、相沢も、そして見てるだけの俺も。
 三原が、傘を取ろうとした男子の手をひっぱたいて払ったのだ。
「ってぇ、三原お前……」
 手を払われた男子は、いつもは気弱な三原に抵抗されて恥ずかしいのか、悔しそうに三原をにらんだ。
 いつもは、びくびくと視線を彷徨わせ、相沢に助けを求める三原が、キッとその男子の目をにらみ返した。
「この傘に障らないで!これは、私と智さんの数少ない繋がりなんだから!」
 普段からは、考えられない声量と態度で三原は叫んだ。
 それに男子は一瞬怯み、「智さんって誰だよ。お前の好きな人かー?」と強がってからかう。
 しかし、三原は全く退かず。
「そーよ。悪い?智さんはね、空気は読めないけど、格好良いというよりは可愛い感じだけど……あんた達なんか比べ物にならないくらい優しいんだから!……私達なんか比べ物にならないくらい、大人、なんだ、から……」
 最後はいつもみたいに、ぐし、と鼻をすすって。
 だけど、それは男子にからかわれたからではないような気がした。
「……行こう、柚子ちゃん」
「え、あ、うん」
 三原が固まったままの男子の輪を抜けて、ずんずん歩いて行く。
 相沢はそのあとに続こうとして、男子の輪を抜けて、こちらを振り返った。
 細長い、鋭利な目で嘲るように男子たちを、そして後方で立ちつくした俺を射抜いた。
 フン、と馬鹿にしたように笑う。
「馬鹿ね、あんた達。苛めてるだけじゃ、瑠花があんた達を怖がりこそすれ、好きになることなんて絶対にないのに。瑠花が好きならもっと別の方法で思いを伝えなくちゃいけなかったのに。……ま、それ以前に自分たちの思いに気づいてなかったのかも知れないけど。ほんっと、ガキね、あんた達。ほんっと、嫌んなるくらい……」
 矢継ぎ早にまくし立て、ばーか、と最後に言い残していく。
 残された男子たちは、しばらくの後取り繕うように、なんだよあいつ等!とかワケわかんねーとか騒ぎだした。
 俺は、何も言えず、じっと立ちつくしていた。
 心臓の暴走は、もう治まっていた。
 でも、何かが刺さったようなじくじくとした痛みが絶えず俺を襲っていた。
 それが、嵐の明けた春の日の出来事。



 あれから、三原をからかう男子はいなくなった。
 当の本人はそんなこと気にした風もなく、今までと変わらない生活を送っている。
 ひとつだけ、三原の表情が明るくなったことを除けば。
「何だか、瑠花ちゃん向日葵みたいだねー」
 と、クラスの女子が三原に言っていた。
 三原は、「そんなことないよ、泣き虫なのは相変わらずだもん」
 とやけに大人びた表情で笑っていた。
 その表情が、俺の瞼の裏に張り付いて、はがれない。



「洋介ー。ケイドロしようぜー」
 昼休み、クラスの男子が俺の肩に手をまわして言った。
 いつもは、グラウンドでサッカーかキックベースをするのだけど、今日はあいにく雨が降っているのでできそうになかった。
「あー、わりぃ。何か図書委員の仕事があるらしくてさ。今日はパス」
「えー、まじかよ?」
 不満を述べてくる男子に平謝りしながら、教室を出た。
 図書委員は普段は特に仕事がなく、楽な委員活動の一つだった。
 図書委員は一クラスの中から二人選ばれるのだが、その楽さから人気のある委員でいつもじゃんけんで決めることになる。
 今日は珍しく図書委員担当の先生に呼び出されていた。
 この6年の学校生活の中でもほとんど入ったことのない図書室へ入ると、既に俺以外の図書委員が全員そろっていた。
 皆、図書室の中央にある机に座り、何かをしている。
 あたりを見回すと、先生はいないようだ。
 慌てて近くへ行くと、クラスのもう一人の図書委員である三原が、
「遅いよ、春野君。もう先生の話し終わっちゃったよ」
「え、ま、まじか。悪い、な」
「いいけど。今日は何か本を一冊読んで、その紹介文を書くんだって。今までに何か読んだ本があるならそれについて書いてもいいらしいよ。それを図書委員おススメの本として貼り出すって、先生が言ってた」
「あ、ああ、なるほど……」
 声に動揺がにじみ出るのを抑えられなかった。
 三原から俺に話しかけてきたのは、凄く久しぶりな気がした。
 変に緊張した俺を気にも留めずに、三原は、じゃあ、私もまだ途中だから、と言ってさっさと鉛筆を握った。
 どうやら彼女は、今までに読んだ本の一冊を紹介するらしい。
 俺はほとんど本なんて読まないし、今まで読んだ本の内容なんて覚えていないから、一から読まなくちゃいけない。
 これ、昼休み中に終わるのか?なんて呟くと、終わらなかったら来週までに提出すればいいんだって、と三原が答えた。
「あ、ああ、そうなのか。ありがと……」
「別に。先生に教えてあげてって頼まれただけだから」
 俺は、本棚の中からなるたけ薄い本を選んで、読み始めた。
 本当は絵本が一番楽なんだろうけれど、それは恥ずかしいので小説にした。
 なれない活字を追っていくうち、これが幼馴染の男女の話だということに気づいた。
 物語の主な登場人物は、生まれた時から仲の良かった小学生の男女。
 毎日一緒に学校へ通い、家へ帰る。
 そのことをからかう男子もいたが、それにもかかわらず二人は仲良しだった。
 ふと、思う。
 この本に出てくる二人のように、俺と三原も苗字ではなく、名前で呼び合う時があったのだろうか。
 お母さんは、幼稚園に入ってしばらくするまでは名前で呼び合っていたらしいけれど、俺は覚えていない。
 三原は覚えているのだろうか?
 物語の中の二人と、俺と三原の関係は同じ幼馴染だけど、全く違うもので。
 少し物語の中の二人がうらやましかった。
 本に思わず夢中になっていた俺は、結局紹介文を書くことができなかった。
「やべ、どうしよう」
 困った俺の前にすべて書き終えたらしい三原がやってきて、
「本読んでる途中なら、借りればいいんだよ」
「あー、でも俺借り方わかんねぇ……」
 そう言うと、三原は呆れた顔をしてため息をついた。
 ちょっと貸して、と本を俺から取るとカウンターへと歩いて行って何やら作業をしていた。
 暫くして、ちょいちょいと手招きされたのでそばへ行くと、
「はい、これで借りれるよ。っていうか仮にも図書委員なんだし、もう6年生なんだから本の借り方ぐらい知っていた方がいいと思うよ」
 と、俺に本を返した。
「でもちょっと、驚いた」
「え?」
「春野君がまじめに仕事するなんて。私、適当に書いて提出するんだろうな、っておもってたから」
「何だよ、それ」
 ふてくされたような顔をして言うと、ふふ、と三原は笑った。
「ごめん、ごめん。じゃあ、私教室戻るね、春野君も早くしないと授業始まっちゃうよ」
 図書室を出て行こうとする、三原を、おい、と呼びとめた。
 なぁに?と三原は振り返り、小首を傾げた。
「色々とありがとな。る……瑠花」
 名字ではなく名前で呼ぶだけ。
 たったそれだけなのに、かなり勇気が必要だった。
 これで、少しはあの物語の中の二人に近づけるだろうか?
 少し舞い上がった気持で、三原の反応を探る。
 三原は、しばらく怪訝な顔をしていたが、
「何、いきなり名前で呼ぶなんて、気持ち悪い」
 と言って図書室を出て行った。
 その時の三原は、何故か怒った顔をしていて。
 俺は、わけも分からず、黙って三原の背中を見送った。



 翌日、俺は箒を持ったままぼんやりとしていた。
 視線の先、窓の外は相変わらず、しとしとと雨が降っている。
 そういえば、もう梅雨なんだよな。
 今更ながら思う。
 梅雨が明ければ、夏が来る。
 俺が一番好きな季節。
 何より夏休みもあるし、カブトムシや、海、スイカ……。
 とにかく、楽しいことが目白押しだ。
 夏が来れば、校庭に植えられた沢山の向日葵が咲き誇るのだろうか。
「何やってんの?黄昏れちゃって。似合わないわよ」
 かけられた声に、振り返ってみると相沢が変な顔をして立っていた。
「変な顔」
「何ですって?」
 素直に声にしたら、殴られた。
「ってぇ……相沢、お前少しは手加減しろよ。女のくせに」
「ふん、女の子に言うセリフじゃなかったでしょ、今の」
「そーかよ」
 チッと舌打ちして、窓の外へ視線を戻す。
 当然ながら、雨はやむ気配はない。
 グラウンドの至る所に水たまりができている。
 水たまりに移る空は、暗く澱んでいる。
 あの水溜りに飛び込めば、この気分も少しはすっとするだろうか。
「馬鹿ね、あんたも」
「何がだよ」
「振られてやんの」
 やーい、と茶化す相沢の顔は敢えて見ない。
 見なくとも、相沢がどんな顔してるかなんて大体分かる。
「何のことだか」
「ふん、強がるんだ?」
「……」
 くすくす、と笑い声が聞こえる。
 向日葵の植えられた庭が見える。
 あぁ、本当に早く夏が来ればいいのに……
「智さん、いい人なんだってさ。空気が読めないってのは良くわかんないんだけど、そこもまた好いとか惚気られたよ。それに何より大人なんだって。……ま、相手はたった2つ上らしいけどね。私たちにとっては、その2つだけでも果てしなく遠いの」
 相沢の声が真剣なものに変わった。
 はぁ、とやけに重いため息をついている。
「ホントは、私、瑠花の恋応援したくないのよ。あまり」
「……何でだよ、お前ら親友だろ?三原が聞いたら、悲しむぞ」
 あれから、三原のことを瑠花、とは呼んでいない。
 呼べるはずが、なかった。
「瑠花には、もっと身の丈に合った、というか楽な恋をして欲しかったの。瑠花の思いは本物よ。だからこそ、瑠花の恋はあの子を苦しめる。今の私たちにとって、年上の人との恋なんてきっと毒でしかないわ。私は、瑠花の一番の友達だって自負してるから。瑠花が傷つくところなんて見たくないの」
「相沢……?」
 相沢の言葉に、不思議を覚えた。
 何だろう、凄く実感がこもっているような、響きがあった。
 思わず、相沢の顔をまじまじと見つめる。
 相沢の表情は、年齢不相応という言葉がぴったりとくるものだった。
 こいつも、恋で苦しんでるのだろうか。
 俺に視線に気づいたのか、相沢は気まずそうに笑って、
「じゃ、まぁ頑張って。……と言っても、もう遅すぎる気がするけど、ね」
 手を振りながら去っていく。
 廊下の先の方で、ちょうど教室に戻ろうとしていた三原を見つけた相沢は駈け出して、三原にギュッと抱きついた。
 二人の表情は良く見えないけれど、あの大人びた顔には見えなかった。
「おい、洋介、もう掃除の時間終わるぜ。教室戻らね?」
「お、おう……わかった」
 クラスの男子と教室へ向かい、廊下を歩く。
「てか、相沢と何話してたんだよー。あ、まさかお前、相沢のこと……」
「馬鹿、違うよ」
 ほんとかー?とヘラヘラ笑う級友の顔を見て思う。
 男と女ってだけで、こうも違うものなのか、なんて。



 雨降る帰り道。
 俺は、川沿いの道を歩く。
 普段の、登校ルートから少し外れた道。
 傘をさして歩く。
 多分、とぼとぼと、という表現がぴったりなゆったりとしたペース。
 最近の俺はおかしい。
 友達からも何度か言われるし、自分でもそう思う。
 何故だろう。
 何故、こんなに、心が痛いんだろう。
 あの本。
 俺と三原とは全く違う幼馴染の二人の話。
 どうして、俺たちとその二人の関係は、こうも違うのだろう。
 家に帰るのも億劫になって、河原に降りて草の上に座り込んだ。
 ズボンが濡れてお尻が気持ち悪いけど、どうでもよかった。
「はぁ……」
 自分でも枯れてるなぁ、と思うくらい深いため息が漏れた。
 こうして連日の雨で流れの早くなった茶色い川を眺めていると、どうしてか、少し泣きたい気分にさえなる。
 頭の中に浮かぶのは、三原瑠花の姿。
 その顔は、俺がいつもからかっている時の表情ではなく、向日葵の笑顔に溢れていた。
「瑠花……」
 名前を呟いて、ずくんと胸が痛む。
『何、いきなり名前で呼ぶなんて、気持ち悪い』
 昨日の三原の言葉と、顔がよみがえる。
 怒らせるつもりは、なかった。
 もしかして、俺は嫌われているのだろうか?
「ああ……くそ」
 それに何より、こんなに三原のことばっかり考えているなんて。
 もしかして、これが恋ってやつなんだろうか?
 俺は、三原のことが――
「瑠花ちゃんのこと、好きなんだ?」
 突然、背後から声がして、思わず背筋がびくっと震えた。
 悲鳴までこぼれそうになったが、それはどうにか堪えた。
 ちょっと、むっとして振り返ると、見知らぬ女がにこにこと俺を見下ろしていた。
 制服を着ていることから近くの大宮中学校の人だろう。
 制服だけで学校が分かるのは、この辺りには制服を着る小学校なんてなくて、中学校も大宮中学校しかないからだ。
 私立の中学校もあるけれど、あそこはここから結構離れた場所にあるし、全寮制なので、もしこの人が私立の人だったら、平日のこんな時間にこんな所にいないだろう。
「あはは、ごめんね。こんな雨の日に、ランドセル背負った男の子が座り込んで川を眺めてるから気になって。もしかして、雨の日に黄昏れるのって、今、小学生の間で流行ってるの?」
「は?」
 何だコイツ?って視線を送ると、女は、「はは、ごめんね」と謝った。
 女はスカートが濡れるのも気にした風なく、俺の隣に座った。
 ひゃっ、冷たーい、とか言ってやっぱり笑っている。
 なんか、ついて行きにくいテンションだ。
 俺にも高校生の姉もいるが、あれに似ている。
「君、名前は?」
「……」
「あー私は怪しいものじゃないよ。っていうか、私の方から名乗った方がいいかな?私は、二宮友。いちお、大宮中の2年生です」
「……」
「はい、君のお名前なんですか?」
「……春野、洋介」
「洋介君かー。よろしくね」
 名前を言いたくなかったけど、ずっと“君”なんて呼ばれるのはガキっぽくて嫌だったので、素直に名乗った。
「それで、洋介君は瑠花ちゃんが好きなんだね?」
「三原のこと、知ってるのか?」
「ん、ううん、だって洋介君、切ない顔して『瑠花……』なんて言ってるんだもん。ああ、この子はその子が好きなんだなぁって思ったの。……違った?」
「別に俺は……」
「ふふ、でもさっきの洋介君の顔、恋する男の子の顔だったよ?」
 かぁ、と顔が熱くなった。
 ふふ、図星だね、とかのたまっている奴の顔が憎たらしいほどニヤニヤしている。
「お、俺は別に!」
「ふむ、自分の心に認識がついて行ってないのかな?もしかして、初恋?」
「だから、お前さっきから何言って……」
 俺が何を言っても、二宮は聞く耳ももたず、話を進める。
 初恋かぁ、初々しいなぁ、となにやらウネウネ悶えている。
 質素なゴムで縛った長い黒髪がゆらゆら揺れた。
 せっかくの整った顔立ちが、まるで台無しの表情をしている。
 二宮の馬鹿にしたような態度が、先ほどまで落ち込んでいた気分を助長し苛立ちへと変えた。
「何なんだよ、もう!」
 拳を握り締めて、唇をかむ。
 キャーキャー言っていた声が止んだ。
「洋介君」
 二宮の声は今までと一転して、優しく穏やかだった。
 まるで、昔のお母さんや、幼稚園の時の先生のような。
「まずは、認めないとね。瑠花ちゃんが好きだってこと。そうしないと、何も始まらないよ。何も始まらないで、終わっちゃうよ?」
「……もう、終わってるんだよ。きっと」
「あら、今度はあっさりと認めるんだね。さっきまで、あんな意地はっていたのに」
「お前がけなすからだろ」
 ああ、そっかごめんね、と二宮は苦笑した。
 雨はやまない。
 寧ろ、次第に強くなってきている。
 お尻が、むずむずして気持ち悪い。
 傘はさしているけど、全ての水滴は防げず、体の至る所が濡れていく。
 夏が近く、気温が高いので特に寒さは感じなかった。
 いつもは穏やかな濁流を、その先を、見つめる。
「瑠花ちゃんが好きだったから、自分のことを見てほしくて、からかっていたんだよね?」
「……」
 突然の二宮の言葉に、何で知っているんだよ。
 そう言おうとして、
「ふふ、洋介君位の年の男の子には、良くあることだよ。好きな子に構って欲しくてちょっかいを出すことって。でも、たぶん瑠花ちゃんはそれを嫌がって、洋介君を怖がっているんだよ」
「俺は、怖がらせるつもりは……」
「なくても、だよ。洋介君にその気はなくても、瑠花ちゃんが怖がってるんだから、からかうのはやめなきゃね。もっと、別の思いの伝え方がいっぱいあるから」
「もう、からかってないよ」
「そう、よかった。じゃあ、瑠花ちゃんに今までのこと、謝った?」
「……」
「まずはそれからだね。仲直りして、そして、瑠花ちゃんに自分の子ともっと好きになってほしいなら、彼女のヒーローになるの」
「ヒーロー?」
「そう、瑠花ちゃんを他の男の子のいじめから守ってあげたり、困っていることがあったら、進んで助けてあげるの。きっと、瑠花ちゃんも喜んでくれると思うけど……どうかな?」
「……」
 ヒーロー。
 何だか、幼稚な響きにも聞こえるけれど。
 三原の潤んだ目が浮かんだ。
 それは直ぐに、目の覚めるような笑顔に変わって。
 その笑顔をもっと近くで見たい、その笑顔のために、何かしたいという気持ちがわいてきた。
 俺は、ずっと前から三原の笑顔を傍で見ていたい、と思っていたのかもしれない。
 でも、当時の俺にはその方法が分からなくて。
 不器用な思いだけが先走って、三原をいじめることでしか彼女と接することができなかった。
 その方法は、間違っていた。
 本当は、俺は、三原のヒーローになってやらなくてはいけなかったのだ。
 三原を守る、ヒーローに。
 ほかの男子とは違う、特別な存在に、俺はなりたいのだ。
 俺は、がばっと立ち上がった。
「わわっ、洋介君?」
「姉ちゃん、ありがとう」
 ぽつり、と呟いて俺は走り出す。
 洋介君!と背後から声がかかった。
 振り返ると、二宮も立ち上がって、俺を見ていた。
「頑張れ、男の子」
 ふふ、この言葉一度行ってみたかったんだーとあっけらかんとした態度に戻っている。
 でも、優しく、柔らかい笑顔は変わらず。
 ありがとう、と再び小さく呟いた。
 雨の音にかき消され、二宮には届いていないだろう。
 俺は、再び踵を返し、河原の土手を登り、学校までの道のりを引き返す。
 確か三原は今日図書委員の仕事で遅くまで居残っているはずだ。
 例の、本の紹介文が良い出来だったらしく、先生にもう何冊分かを書いてくれるよう頼まれていた。
 真面目な三原のことだ、きっと今日中に終わらせようと学校に残っているはずだ。
 とはいえ、もうそれなりに時間もたっているので、学校に残っている可能性は少ない。
 それでも、俺は、懸命に走っていた。
 傘は、走るのに邪魔なのでささずに走る。
 いろんな原因による、おなじみの鼓動の暴走が、妙に心地良い。
 心臓破りの坂を、登り切り、葉桜並木の道を進む。
 校門を抜けて、校庭を駆け抜け、昇降口で今まさに帰ろうとしている、よく目立つ、その姿をとらえた。
「三原!!」
 瑠花と呼ぶのはまだ怖かった。
 気持ち悪い、と言われたらもう俺は立ち直れないんじゃないだろうか。
 唐突に名前を呼ばれた三原は、びくっと肩を震わし、数旬視線を彷徨わせ俺の姿に気づいた。
 一気に、目の前までかけて、俺はようやく立ち止まった。
 座り込みたいほどの疲労感があるけれど、ぐっと堪え、肩で息をする。
「どうしたの……?」
 少し怯えたような視線を向けてくる。
 俺は、仕方ないことだ、と自分に言い聞かせ、勢いよく頭を下げた。
「ごめん!!」
「え?」
「今まで、意地悪ばかりして、ごめん!!」
「……」
「俺、俺、どうかしてたんだ。ガキだったんだ、どうしようもなく。本当はお前を守らなくちゃいけなかったのに……ガキだったんだ、幼かったんだよ、俺。三原のこと好きなのに、強がって、偉ぶって。ほんと、馬鹿だった。身勝手かもしれないけど、許してほしい。これからは、俺、三原のこと守って見せるから。許して、欲しいんだ」
 自分でも何を言っているのかよく分からなかった。
 ただ、感情にまかせて、早口にまくし立てた。
 三原はじっと黙ったままだ。
 顔を上げようとして、やめた。
 三原が今どんな顔をしているのか、知りたくもあったけど、不安もあった。
 少なくとも、俺が一番望む表情をしていないことだけは分かったから。
「春野君、顔あげて」
 三原に言われて、やっと顔を上げる。
 彼女は、少しだけ悲しそうな顔をして笑っていた。
「春野君の言いたい事は分った。今までのこと、今すぐに水に流すことはできないけど、許してあげる」
「本当か!?」
「でも、それだけ。私と春野君はただのクラスメートで友達。それ以上でもそれ以下でもない。……きっと、幼馴染でもない」
「え……」
「私のこと守るって言ってくれたことは、嬉しいと思うけど、必要ない。私が守ってもらいたい人は他にいるから。だから、春野君の気持ち全部は受け取れないよ」
 ごめんね、と三原は言う。
 あの、大人びた表情で。
 そして、青い傘をさして、俺の横を通り過ぎた。
「あ……」
 言葉が、出てこなかった。
 三原の、俺より高い背中を見送ることしかできなかった。
 気がつくのが、遅すぎたのだ。
 俺は、三原瑠花のヒーローになれなかった。
「ヒーローだって?幼馴染にさえなれてないくせによく言うよな……馬鹿みてぇ」
 はは、と笑う。
 雨にぬれた髪から、水滴が頬を伝う。
 そこに、雨以外のものは混じっていない。
 ただ、無味の水がとめどなく滴り落ちていた。








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