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 カーンという小気味良い音とともに、白球が青い空に吸い込まれていく。
 わっと声が上がり、外野手がボールを追いかける。
 ダイアモンドを3人の走者が駆ける。
 ようやく外野手が球に追いつき、内野にボールが戻ってきた時には既に、走者は全てホームを踏んでいた。
 3ランホームラン。
 ここは学校のグラウンドなので、基本的にホームランはない。
 なので、今回のそれもランニングホームランだった。
 しかも、試合の勝利を決めた劇的なサヨナラホームラン。
 一方のベンチから歓声が上がり、もう一方からは励ます様な声が上がった。
 マウンド上のピッチャーが、周りの声も聞こえていないかのように呆然と立ち尽くしていた。
 
 その様子を松浦恭一はぼんやりと眺めていた。
 視線の先の投手が味方に励まされながら、グラウンドに整列した。
 全く面識のない恭一にも一目瞭然なほど肩が沈みきっている。
 恭一は首を傾げた。
 この試合はたぶんただの練習試合だろう。
 公式戦というわけでもないのに、あの投手の落ち込みようはどういうことなのだろう。
 負けたのが悔しいのは恭一にも分からないわけでもなかったが、それにしても度が過ぎている気がした。
「なんか思い入れのある試合だったのか?」
 例えば、彼女が来てるとか……。
 しかし彼のほかに観客はいない。
(ま、どうでもいいけどな)
 恭一はふぅ、と息を吐いて立ち上がった。
 その場で伸びをして、凝り固まった背筋を伸ばす。
「ふぁ……」
 欠伸と一緒に、グゥとお腹までが鳴った。
 顔が赤くなるのを感じながら、周囲を慌てて見回すと、すぐそばに一人の少女が立っていた。
 しかも、恭一を事をじっと見ている。
 その少女は、白い半そでのTシャツと青いジャージのズボンをはき、その手に野球ボールの入った箱を持っている。
 Tシャツに校章のようなマークが入っており、それは恭一が来週から通うことになる学校のものだった。
(マネージャーか?)
 なんというか、気まずい。
 別に、お腹が鳴ったのを聞かれたからと言って、それを気にするほど乙女な性格をしているつもりは恭一にはなかったが、何だか気まずい空気が二人の間を漂っていた。
 どこかで会ったことがあるような、懐かしさを恭一は感じた。
 いやな予感がした恭一は、逃げるようにその場を去ることにした。
「ねぇ」
 しかし、いざ背を向けようとしたところに少女の声がかかった。
 逃げ遅れたことに、ため息を小さくついて、少女に向きなおる。
 あんた誰ですかオーラを意識して出しながら、「何?」と恭一。
 しかし、少女はそれを気にした風もなく朗らかな笑みを浮かべている。
(いや、これは気づいてないだけだけだな)
 嫌な予感はあながち外れていない気がした。
 社交性がお世辞にもあるとは言えない恭一にとってこういう人間は苦手だった。
 それが、女性ともなれば尚更というものである。
 自慢ではないが生まれてこの方、恭一は恋人なんていた試しがなかった。
(ほんっとに自慢になんねぇなぁ……)
 少しだけブルーな気持ちになる恭一に、少女はかわいらしく首をかしげ、黒曜石もかくやというべき大きな目をぱちくりさせた。
 肩甲骨あたりまで延びたポニーテールが、ふわと揺れた。
 少女の容姿はなんというか、物語のヒロイン然としていてそういう所作がよく似合った。
「ねぇ、ねぇ、君、見かけない制服だね。もしかして、どこかの学校の偵察かな?うちのチーム見に来るわけないし意味もないから、至誠館が目当てかなー?」
「いや、その言い方はチームのマネジャーとしてどうだろうか。まぁ、俺はスパイじゃないけどな」
「そなんだ。ま、至誠館もここ最近はぱっとしないし、偵察なんておかしいと思ったんだー」
 あははーとあっけらかんに笑う。
 恭一は、いよいよ頭痛がしてきたような気がしたが、なんとか平静を装ってみる。
「俺、来週からここに転校するんだよ。今日はまぁ、手続関係で学校に来てたんだが、ちょうど試合があってたからな」
 それで、見学させてもらったわけ、と説明する恭一に少女はなるほどねと頷いた。
 そして少し考えるようなそぶりをした後、いきなり恭一の手を取って、顔をグイ、と近付けた。
「え、じゃあ、もしかしてうちの野球部に入部してくれるのかな?わー、助かるなー。うち、部員数そんなに多くないからさ。ポジションはどこ?サード?背高いしファーストかな?あ、もしかしてピッチャーかな?わー、大和クンのライバル登場かー?なんかいいよね、ライバルって。青春ってかんじでさ。あ、そうだ、監督とキャプテンと会ってみる?あ、大丈夫だようちの監督とキャプテン優しいし、副キャプテンは厳しーんだけどね〜。よし、じゃあ呼んでくる――」
「って、おい、ちょっと待とうな」
 恭一が容姿端麗な少女との距離の近さにドギマギする間もなく始まったマシンガントークに呆然としていると、何やら不穏な成行きになりかけていることにようやく気付いた。
 グラウンドの方へ駈け出そうとしている少女の手をどうにかつかみ、引きとめた。
 引き留められた方の彼女は、どうして止められたのかさっぱりといった表情である。
「きょとん」
「いや、その擬音を口にするのはどうだろうか」
「あ、やっぱり?」
 ――殴ってもいいだろうか。
 恭一は、久しぶりに本気でそう思った。
 偏頭痛持ちの恭一にとって、そばにいるだけで頭痛がするこの少女は天敵といってもよかった。
(全く、こんなことなら野球の試合なんて見るんじゃなかったな)
 一時間程前の自分の気紛れを呪いながらこみ上げる溜息をこらえた。
「とにかく。俺は野球部なんてものに入るつもりはないから。今日ここに来たのは、たまたまだよ。たまたま」
 そう、たまたまだ。
 もう、野球に、未練は、ない。
 そう自らに言い聞かせながら、恭一は踵を返した。
「じゃあ、もう俺は帰るから」
 またな、と言おうとして、やめた。
 できればもう会いたくなかった。
 自分の肉体的と、精神的、両方の平安のために。
「あ、そうだ、君名前はー?」
 校門に向かい始めた恭一の背に、やはり明るい声がかかった。
 恭一は立ち止まり、再度振り返り、そのくらいはいいかもな、と思い答えようとして、
「私は2年3組神崎伊万里ー。よろしくねー」
 その名前に、ぴたりと動きを止めた。
(神崎、伊万里?)
 聞き覚えのある名前だった。
 幼少の頃よく遊んだ、初恋の少女の名前――。
 伊万里なんて、珍しい名前の者に恭一は彼女以外会ったことがない。
 恐らく、同一人物であろう。
 自分の名前を答えることに躊躇する。
 自分は、あの頃の自分ではない。
 変わってしまった、変わりすぎてしまった。
 ずくん、と左ひじが痛む。
『ごめんね、ごめんね……』
 遠くで泣く声がよみがえる。
 ぎゅ、と左ひじを右手でつかむ。
 もう、ボールを放ることができない壊れた腕。
「ねー、どうしたのー?」
 うつむいた恭一に伊万里は心配そうに尋ねた。
 恭一は、はっと顔をあげ、「恭一……」と掠れる声で名乗った。
「えー?何ー?」
「松浦、恭一。2年、クラスはまだ分からない」
「松浦恭一クン、か」
 恭一は次に発せられるであろう言葉に対し身構えた。
 伊万里が何と言おうと、他人の振りを押し通す。そう、決意する。
 しかし、恭一のその覚悟をよそに、伊万里はにぱっと破顔し、
「松浦クン、よろしくねー」
 と残し、手を振って呆気なくグラウンドへと走り去っていく。
 残された恭一は、ぽつんと立ちつくす。
「覚えて、なかった……?」
 呟きは、生ぬるくなり始めた風にかき消えた。
 伊万里が自分のことを忘れていて、安堵しているのか、残念なのか。
 複雑な気持ちが、ぐにゃぐにゃに絡み合う。
(って、待て待て、複雑、だと?)
 そうではないはずだ。
 伊万里が覚えてなかったことは、僥倖だ。
 きっと、これでよかったはずだ。
「ふん……」
 恭一自身、何に対してなのか分からない嘲笑を浮かべ再び校門へと歩く。
 その足が、少しだけ普段より早足になっていることには気づかずに。




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