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 伊万里は試合後自主練が行われているグラウンドを手持無沙汰そうに眺めていた。
 段々と昼が長くなってきたとはいえ、もう既に陽は沈み始めていた。
 空に浮かぶ雲が、紫のような橙色のような不思議な色に染まっているが、彼女は見慣れているようで、興味はなさそうだった。
 グラウンドから野太い声が上がる。
 伊万里がマネージャーを務める雛森高校野球部、略してヒナコー野球部は部員数こそ少ないが、一人一人がやる気にに満ちており、決して弱小チームではない、と伊万里は自負している。
 今も2試合を戦った後なのにほぼ全員がグラウンドに残り自主練に汗を流している。
 伊万里はそんなヒナコー野球部の雰囲気が好きだった。
 ――ん〜いいね、青春だね。
「おい、神崎」
「あ、はい」
 グラウンドをニヤニヤと見ていた、伊万里に野球部副キャプテンである山内宏明が声をかけた。
 伊万里が振り返ると、彼は何だか呆れたような顔をしている。
「お前、また青春モードに入ってたな?」
 はあっ、とわざとらしくため息をついて言う山内に伊万里はえへへ、と笑って答えた。
 伊万里は、青春っぽい青臭さい光景が大好きで、見ると頬がだらしなく緩んでしまう。
 普段は可愛いと男女ともに人気がある伊万里ではあるが、トリップしてしまうと、ほぼ全ての人が引いてしまう。
 彼女もそのことは知ってはいたが、どうしてもやめることができないのであった。
「えと、山内先輩、まさかそのことを言うためだけに来たんですか?」
「ああ、いやあいつのことだよ」
 照れ笑いを浮かべ、話をすりかえる伊万里に苦笑し、山内はすっと真面目な顔をしてある一点を指差した。
 その方向に視線を向けると、野球部の2年でありながらエースの地位にある、山代大和が投球練習を続けていた。
 今日はすでに一試合投げた後であるというのに、その真剣ぶりはクールダウンと呼べる代物ではなかった。
 全く、元気なものである。
「ありゃ、いつものですか……」
 その姿を見て、伊万里は苦々しく呟いた。
 大和は試合の出来が納得いかないと、オーバーワーク気味に投げ込みを始めるのだった。
「そう、いつものだ。まぁ、しばらくは大丈夫だろうと放っておいたが、もうかれこれ100球近く投げているんでな。止めさせようにも俺たちがいくら言ってもあいつ聞かないし、幼馴染のよしみで神崎が連れて帰ってくれ」
「はい、わかりました」
 いつもはクールで厳しい山内だが、チームメイトを思う気持は強く、そういう点でみれば優しいとも言えるのかもしれない。
 伊万里が大和の元へ向かうと、それに気づいた彼は投げるのをやめて、伊万里がそばにくるのを待っていた。
「もう、あがったら?」
「何だよ、別にいいだろ」
 むっとした顔で大和はそっぽを向いた。
「全く、あんまり根詰めすぎると体壊すよ」
「はっ、俺がそんなにヤワに見えるか?」
 大和の言うとおり、彼は背こそ高くないが、体つきは良くがっしりとしてる。
 関係のないことではあるが、彼はそれなりに顔立ちも整っていて女子にも結構人気がある。
 伊万里も何度か仲介を頼まれたことがある。
 しかし大和は、実は小学生のころからの付き合いで、幼馴染とも腐れ縁とも呼べる伊万里のことが好きなようで誰かと付き合うことはなかった。
 大和が伊万里が好きであるということは、今では多くの人間が知っており、大和に告白する女子はもう居なくなっていた。
 とはいえ、大和にとって幸か不幸か、伊万里だけは大和の気持には気づいておらず、大和が多くの女子を振ってきたことに誰か好きな人でもいるのかなーとのんびり思っているだけであった。
(そういえば、松浦クンも人気出そうだったなー)
 伊万里は昼に出会い、少しだけ会話を交わした少年を思い浮かべた。
 大和が男らしい、彫りの深い精悍な顔つきであるのに対し、松浦恭一は桂男で、背は高いがどことなく華奢な体つきも相まってか、ともすれば男装の麗人のようにも見えた。
 この雛森高校に転校してくると言っていたし、彼も女子からの人気を集めることだろう。
 そして、伊万里には一つ気になることがあった。
 松浦恭一と出会い、話している内に、なにか奇妙な感じを覚えたのだ。
(何ていうか……こう、懐かしいような、でもどこか慣れ親しんだような……微妙な感じ)
 何だろう?と首をひねる。
 思い出すと、胸がほんわかと温かくなる。
 どくん、どくんと、心の奥底に、大切にしまいこんだ気持ちが鼓動を打っている。
 伊万里はそれに意識の手を伸ばそうとして――
「おい、伊万里!!」という不機嫌そうな声によって、現実に引き戻された。
 伊万里は、せっかく何かつかめそうだったのに、とちょっとだけむっとして、
「何?どうかした?」
「だから、帰るぞって言ってるんだよ。やっぱ聞いてなかったのか?」
 見れば大和は既にマウンドから降りて、彼女を訝しげに睨んでいた。
 何だよ、ニヤニヤして気持ちわりぃ、という大和のぼやきはあえて無視する。
「あれ、まだ続けるんじゃなかったの?」
「うるさいな、別にいいじゃねぇか」
 大和はなぜか顔を赤くして、さっさと背を向けてグラウンドを去っていく。
 伊万里が心配してくれてるんだしな、なんてぼそぼそ呟いてみるが、それを伊万里に聞こえるぐらいの声量にする勇気はなかった。
 その様子を見て、伊万里はふふ、と笑う。
 わざとらしく大仰にため息をついてみせて、「はぁ、大和クンは素直じゃないねぇ……」と大和の後を追った。
「あれだね、大和クンは。ほら、何て言ったっけ……つ、つん……ツン……」
 そして大和の隣に立つと、そうだ!とおもむろに大和を指差した。
「ツンドラ!!」
「何だそりゃ。意味わっかんねぇ……」
 大和は眉をよせて失笑した。
「あっれー、違ったっけ?」
 伊万里はむぅ、と腕を組む。
 組んで、しかしそれほど真剣には考えていない。
 それを大和は知っているのか、
「んじゃあ、俺着替えてくるから。お前はどうせ今日も着替えないんだろ?」
「ん、今日はどうせ制服持ってきてないしね。いつものように校門で待ってるよー」
 大和は部室へ、伊万里は校門へと歩いて行く。
 大和と伊万里は住んでいる家も近いので、部活があった時は2人で帰ることが多かった。
 
 校門に寄りかかり、夕陽に灼かれる校舎をぼんやりと見ていた。
 先ほどまでのあの不思議な鼓動は、もう落ち着いていた。
 その正体が分からなかったことを少しだけ残念にも思うが、彼女特有の楽観さで、
(ま、いっか!)
 と、笑い飛ばしていた。
 松浦恭一。
 彼の試合を見つめる目が、何かを耐えているような切迫さを孕んでいて、伊万里は思わず彼に声をかけていた。
 天真爛漫な性格で、男女ほぼ分け隔てなく接する伊万里だが、見知らぬ人間にまで無邪気に声をかけることはない。
 それくらいの常識のような物は持っている。
 しかし恭一の姿を見て、伊万里は話しかけずにはいられなかったのだった。
(松浦、恭一クン、か……)
 来週から転校してくるという彼。
 どうやら同じ学年のようだし、5クラスしかないこの小さな公立高校だ、きっとどこかで会えるだろう。
 会えるといいな、そう思う。
 そのときは、また野球部に勧誘するのもいいだろうし、もっと色々なことを話したい。
 そこまで考えたところで、こちらにやってくる大和を見つけて、大きく手を振った。




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